献仁陵 (史跡194号 内谷洞山131-1)

The Hunnung is a twin-peaked tomb of King Taejong (reigned 1401-1481), the third king of 献陵は朝鮮第 3 代太宗と王妃の元敬王后閔氏の陵で、この陵の右側にある仁陵は 23 代純祖と王妃の純元王后 金氏の陵である。
献陵と仁陵をあわせて献仁陵と呼ぶが、この二つの陵は 1970 年 5 月 26 に史跡第 194 号として指定された。献仁陵の裏山である大母山は海抜 290.8m で、山の形が老母に似ていることからハルミ山、または大姑山と呼ばれてきたが、太宗の献陵が造らたことで王の命令により大母山と改称されたという。

清権祠附墓所 (ソウル有形文化財12号 方背洞 191-1)

清権祠は世宗大王の兄である孝寧大君の墓と舎堂で、方背洞 191-1 に位置している。考寧大君は太宗の二番目の息子として生まれ、太宗 12 年孝寧大君に奉ぜられた。平素から孝心に厚く、兄弟間の友愛が深かった孝寧大君は、読書を好み、特に仏教に篤実で、世宗 10 年( 1446 )の円覚寺創建の際には造成都監提調となって監督を受け持った。また、円覚経を国訳・刊行もした。
『清権』という舎堂の名は、<論語>巻 18 微子篇に由来している。すなわち『 謂 虞仲 夷逸 隠居放言 身中清 廃中権 』という句の『 身中清 廃中権 』の略語である。

(ソウル有形文化財60号 瑞草洞 山152-5)

尚文高等学校 ( 方背洞 100-1) には朝鮮明宗の時代の政丞だった尚震の墓と神道碑がある。この碑は尚震が他界した 2 年後の明宗 21 年 (1556) に建てられたもので、 1984 年にソウル特別市有形文化財第 60 号に指定された。尚震の神道碑は高さ 362 ㎝、幅 170 ㎝、厚さ 104 ㎝で、碑身と台石、屋蓋石などの三部からできている。碑文は宣祖の時代に領議政だった洪暹が作り、字は中宗の娘の夫で南原雲峰の荒山大捷の碑文を書いた宋寅が書いた。

(ソウル有形文化財92号 方背洞 山191-1)

大成寺の木仏坐像は座っている形の釈迦を彫刻した仏像だ。この坐像は朝鮮後期に木で彫られたもので、後代に表面を鍍金した。この寺は 1919 年の 3 ・ 1 運動当時、万歳運動を主導した 33 人の中の 1 人である白龍城僧侶が住持していた。
大成寺は百済時代に由来する由緒ある寺だ。百済第 15 代の枕流王元年 ( 西暦 384 年 ) に百済に仏教を伝えた東晋の摩羅難陀が百済に来る途中、身体に合わない食べ物と気候によって患った水土病をここの寺の湧き水を飲んで治し、ここに大成草堂を立てて起居したと伝えられており、これが後に大成寺になったという。
その後、新羅、高麗、朝鮮時代を経て多くの僧侶がここを通過したが、その中でも元暁大師、普照国師知訥、無学大師などの有名な高僧がここで起居した。また近代では 3 ・ 1 運動当時の民族代表 33 人の中で仏教界の代表だった白龍城僧侶がここで起居しながら民族運動を展開した。

(ソウル有形文化財93号方背洞 191-1)

高麗末、朝鮮初期の土俗的な様式を帯びている約 2m の大きさの弥勒仏と小石塔規模の三層石塔がある。弥勒仏はウォントーマウルの守護神とされていたが、至誠を尽くせば吉凶禍福を啓示するということで日帝時代に日本の警察が毀損したという話が伝えられている。
院趾洞清渓山の登山道への進入路となっている高速道路のトンネル入り口の右側には、 4 坪ほどの弥勒堂 ( 院趾洞 362-4,5 番地 ) が建てられている。この中には木魚と祭器が備えられており、約 2m ほどの白い弥勒仏の立像が安置されている。
ソウル特別市有形文化財第 93 号のこの弥勒仏は、ウォントーマウルhの守護神で、 1 年にいちど、住民が堂祭を行っている。本来この弥勒仏はとても神秘的な霊験があり、日帝強制占領期に日本人が馬車を動員してこの弥勒仏を日本に搬出しようとしたが失敗したことがあった。人々が弥勒仏の霊験を信じてしきりに集まってくるので、日本人が弥勒仏のへそをつついたのだが、それ以後、弥勒仏の霊験な能力が失われたと伝えられている。

蚕室里の桑の木 (ソウル記念物1号 蚕院洞 1-54)

周囲 1.4m の老巨樹のこの桑の木は、朝鮮初期に植えられたものと推測されるが、正確な植樹時期と樹齢はわからない。
しかし、成宗~燕山君の在位期間にこの地域一帯に新蚕室が設置された時に植えられたものと推測されている。
現在枯死した木の状態は、幹が二つに分かれて伸びているが、枝の中間で切られた状態だ。大韓蚕糸会ではこの桑の木の周辺に 桑の苗木を植えて、その昔、養蚕が盛んだったことを市民に知らせている。